ヌワラエリア
奇妙に思えるかもしれませんが、セイロン・ティーの物語はコーヒーから始まりました。1820年代初頭、セイロン島に現存する最後の土着統治国家であったキャンディが英国王室に降伏しました。1831年には、コーヒー産業はキャンディ周辺の多くの土地を占め、中央丘陵地帯のかつて原生林であった森へと南へと広がっていきました。
セイロンのコーヒー産業は成長を続け、1870年代半ばには、セイロンは世界最大のコーヒー生産国となり、その利益で、セイロンは繁栄しました。一方で、1869年、マドゥルシマの農園で新しい植物病であるコーヒー褐斑病の最初の兆候が現れ、10年余りをかけてセイロンのコーヒー事業全体を一掃しました。
1852年、セイロンに到着したジェームズ・テイラー(James Taylor)は、ガラハのルーラコンデラ農園(コーヒー園)に住居を構えました。1867年、彼はルーラコンデラ農園内で約77,000平方メートルの茶園を始めたことが、1世紀以上にわたるスリランカ最大の輸出産業の基礎となりました。1872年、完全設備の紅茶工場がルーラコンデラ農園で操業を開始し、1873年、ジェームズ・テイラーが生産した約10.4kgの茶葉がロンドンに到着し、セイロンティーが世界にデビューします。1880年代、丘陵全域の農園主たちがルーラコンデラを訪れ、茶葉の栽培や生産の基礎を学ぶようになり、スリランカの紅茶生産は急速に成長しました。
1880年代末期には、ほとんどのコーヒー農園が、より収益性を期待できる茶の栽培に転向しました。1915年、トーマス・アマラスリヤ氏が、大農園主組合初のスリランカ人理事長に任命されました。紅茶の生産量に関して、世界第一位はインド、二位はスリランカ、三位はケニアですが、輸出量に関しては現在、スリランカが世界一位です。
ヌワラエリアは、スリランカの産地の中でも標高が最も高い産地で、クオリティーシーズンは2月3月です。