ジュンチャバリ茶園 
如何に差をつけるか?に挑む物語

如何に『違い』を見出すかに挑戦するストーリー

ローチャン・ギョワリ
ジュンチャバリ茶園

 

 

これから始まるのはジュンチャバリ茶園の物語です。ネパール一帯の他の茶園と、如何に『違い』を見出すかに挑戦するストーリーです。

ジュンチャバリは、ネパールにあり家族経営の茶園です。2000年に会社を設立した際は、幼少期に弟のバチャンとダージリンの全寮制の学校に通っていましたが、お茶の知識は全くありませんでした。弟は12年、私は8年もダージリンの寄宿舎に暮らしていたにも関わらず。ダージリンで当時通っていた学校は、プッタボン茶園、シングタム茶園そして、プーブシェリング茶園のような茶園に囲まれた西ベンガル州にありました。ホリデー期間中は3-4日間、川まで向かい、茶摘みが行われている茶園の中でキャンプをしました。教室からは緑の茶畑の素晴らしい景色が広がり、校庭からティースタバレーまでその光景が続きます。茶摘み中の作業員が歌う憂鬱なネパールのラブソングが、授業中の教室でも聴こえることもしばしばでした。このように我々の幼少期は様々な意味で茶に囲まれていたわけですが、全くそれを知らぬままでした。

2000年に我々は茶業を始めようと決意し、東ネパールのあらゆる山々を巡り、茶園プロジェクトを遂行するのに最適な場所を探し求めました。最終決定の要因の一つに、気候問題と温暖化があり、地球温暖化が通常より標高が少し高い場所を選ぶ決め手となりました。最終的に、北緯27度東経87度のネパールのハイルという小さな町の近くのダンクタに茶園を創設しました。ジュンチャバリという名前の由来は、月明かりの茶園の意味です。ネパール語でジュンは月を意味します。また、我々の父に敬意を表し、父の名チャンドラが月を意味することにも機縁します。また、欧州や日本、中国をはじめとするアジア、もちろんネパールのお客様にも分かりやすい名前であることにも配慮しました。ですから、ネパール語で、ジュンは月を、チャはお茶を、バリは畑、菜園を意味します。後に、ジュンは日本語でも中国語でも「純」という漢字を用い、純粋という意味である事に気付きました。「純」という字はまさに、我々のお茶に対するヒマラヤの純粋な哲学を体現した文字であると言えます。

ダージリンで最初に気付いたことと言えば、同じ学校の卒業生、彼らの両親、親戚の多くが茶業従事者であり、中にはマネージャーやオーナーである事でした。しかしながら、茶業をはじめ一年も経たないうちにネパールやダージリンの他の茶園と同じではならないと気付きました。当初に失敗をしていたにも関わらず、他と差異をつけるように試みました。『違い』を見いだすにはどうすべきか?初めに、ダージリンやネパールのイラムにあるような典型的な英国式コロニアルスタイルで、広大な敷地に茶畑を作る計画もありました。しかし、それは間違いだと気付き、土地を買うのを止めました。日本や台湾では茶園が小さく、農家や共同経営で営まれているのを目にしたからです。しかし、日本や台湾をコピーする事も叶わず、2種類の品種の交配を決意し、所有の小さな茶畑を管理しつつ、茶農家と協力することにしました。サイズとしては、当初望んでいた茶畑の1/3におさまりました。

2003年に製茶を開始した当初、ダージリンで一般的な英国式インドの機械ではなく、台湾の機械を導入しました。既存の慣習にとらわれない意図的な決断により、すぐさま茶のバイヤーの目に留まりました。インド式の機械はだいぶ遅れて導入しました。また、ダージリンの体制を見本とするのもやめました。SFTGBOPと分類するのもやめ、ファーストフラッシュ、セカンドフラッシュとも呼ばずに、我々のお茶をオーソドックスティーとしました。我々はその歴史の一部ではありません。何故なら、わずかに台湾式で製茶し、台湾の機械を用いているため、これをオーソドックスティーと呼べるか否かは定かではありませんが。しかし、高山茶であることは疑いなく、標高1650-2100mに位置し、工場から半径10キロ以内の小さな茶畑から採れた茶葉から作っています。ジュンチャバリの他の独自の挑戦といえば、茶箱を使うのを早々にやめたことです。富士インパルスの脱気シーラーを使い、吉村のアルミ袋を使用した茶園は地域で最初でした。これにより、『違い』を見いだすだけでなく、茶の質が向上しました。

中国の清明節と、日本の懐石料理に刺激を受け、季節を感じることはとても重要だと思います。日本や中国の文化に心を奪われ、お茶は大地の恵みである季節のものというニュアンスから、ファーストフラッシュやセカンドフラッシュよりも季節を重んじる言葉を使います。多くの我々のお客様がその新しい方法を好んで下さり、後押しして下さいます。

(ジュンチャバリの季節のお茶)

○新春-初期の2-3回転のお茶の特徴違いが大きく表れ、3月が特に際立つ時期です。日本の二十四節気の春分の頃に始まります。

○春-2-3回収穫が終えた頃、お茶は春らしくなります。英国式のインド方式ですと、これらはファーストフラッシュに含まれます。4月から収穫を始めます。

○初夏-5月中旬から雨季により6月初旬までのお茶です。

○夏-7月中旬から9月までのお茶です。日本の小暑と大暑の間に始まり、秋分の数日後の雨が止むころまで。

○秋―秋分の雨後から始まり、本格的な寒さが到来するまでのお茶です。

○冬―冬茶は木々の葉が完全に変化し、本格的な冬のシーズンのものです。11月下旬もしくは12月の初旬の最後の収穫までです。

茶園には小さな区画に、P312、B157、AV2のような良質のダージリン品種が植えてあります。ですから、それぞれのお茶には様々な品種をミックスしています。我々が茶業を開始したときに知識がなかったため、ダージリン品種をたくさん植えたのは間違いでした。ネパールのイラムのオールド・インペリアルという品種の茶樹のある区画を買っていたのは幸いでした。我々はゆっくりと過去の品種の選択の誤りを正すべく、オールド・インペリアル品種のほか、台湾、中国、日本産の品種を増やしています。

さらに『違い』について言うと、当初からオーガニックに徹したことです。2001年に購入した最初の苗を含め、全てがオーガニックです。それが茶園の指針となる哲学で、おそらく茶の成長に4-5年を要し、実際のスイスのIMOオーガニック認証を取得したのは2012年です。当初の過ちを全て正すには少なくとも10-20年の時間が必要で、ジュンチバリが完全な『違い』を見せるのはその時だと信じています。我々は、最終的には最初に描いた夢の通りになり、素晴らしい伝説をネパールに、そして次世代に残せると確信しています。

 

– Lochan Gyawali

Kathmandu, Nepal

12 March 2017

訳 Miwa YAMAUCHI

丸子紅茶の一日

丸子は近代茶業の礎の地なり

千葉県出身の旧幕臣 多田元吉翁(1829年生)は、明治2年(このとき40歳)、東京から徳川家15代将軍より払い下げられた静岡の丸子に移住し、広大な茶園を開きました。

当時、日本の輸出を支えたのは生糸とお茶でした。茶業振興を図る政府から、多田元吉翁は明治初期、中国、インドで紅茶製造の技術を学び、日本近代茶業発展の基礎を築きました。翁の茶樹は、現在も丸子の地を守っています。

そして、子供のころから元吉翁のことを聞かされていた村松二六氏は、紅茶発祥の地のお茶を絶やしてはならないと、平成元年から本格的に紅茶の復活に打ち込むようになりました。

近年人気上昇中の和紅茶を支えてきた村松二六氏の、紅茶づくりの一日をおいました。

データで見るお茶

世の中には色々な飲み物がありますが、コーヒーとお茶を比べるとどちらの愛飲家が多いイメージでしょうか?
なんとなく、コーヒー好きの方が多い印象がありませんか?

実際には、世界中で水の次に消費量の多い飲み物は、「お茶」です。

では、データでお茶を見てみましょう。

Q: 世界で最もお茶を愛する国民は?

A: 2014年の一人当たり年間お茶消費量をご覧ください。

1 トルコ       7.54 kg
2 モロッコ      4.34 kg
3 アイルランド    3.22 kg
4 モーリタニア    3.22 kg
5 英国        2.74 kg
6 セイシェル     2.08 kg
7 UAE          1.89 kg
8 クウェート     1.61 kg
9 カタール      1.60 kg
10 カザフスタン     1.54 kg

Q: 世界で最もお茶の生産が多い国はどこでしょう?

A: 2014年のデータですが、生産量の1位は中国、2位インド、3位ケニアの順です。

1 中国         2,095,570 kg
2 インド        1,207,310 kg
3 ケニア        445,105 kg
4 スリランカ      338,032 kg
5 ベトナム       228,360 kg
6 トルコ        226,800 kg
7 インドネシア     154,400 kg
8 イラン        119,388 kg
9 ミャンマー        98,600 kg
10 アルゼンチン       85,401 kg

日本も2013年まで、世界でも10番以内の生産量を誇っていました。紅茶はインフルエンザ対策にも有効と、最近は科学的に証明されています。
和紅茶が人気になれば日本の生産量が回復するでしょうか?

是非、美味しくお茶を飲みましょう。

ダージリンの茶園に勤めて

ダック茶園と私の思い出

ネハ・ロチャン
ロチャン・ティー・リミテッド

インドに於いてお茶は、消費量の多い生活必需品で、お茶を飲まずして素晴らしいアイディアは浮かばないとまで考えられています。地域ごとにバラエティ豊かなチャイが来客にもてなされ、この習慣は、インドに深く根付いた伝統と言えます。

様々な嗜好が満たされるのは、多くの茶園がある故で、その一つにダック茶園があります。自然に囲まれた家族経営のダック茶園は、ビハールというインドの東部にあります。設立後、長い歴史があるわけではありませんが、認知度は確実に上がっています。耕作と茶作りは、私達の天職で、興味深く、常に最良を尽くそうと努力しています。私達の作業を愛している一方で、時に単調さを感じることがあると認めざるを得ません。しかしながら、その単調さの例を除けば、他のいかなる仕事の領域にもない楽しさがあります。
インドのこの一帯には象が生息し、夜間に茶園の道を歩く象に出くわすことも決して珍しいことではありません。リラックスして散歩をしていたら、猛獣の群れに遭遇し、非難する場所ははるか遠いという場面を想像してみてください。安全な距離から静かに、その神聖な姿を眺められる状況ではないのです。

過去にはこんなこともありました。子牛が用水路を渡り切れずに落ちてしまい、母の牛は助けようと必死でしたがうまくいきませんでした。そんな時には、森林局の職員が、群れをかき分けてなんとか子牛を救出しました。たいていの場合、象が住み込みの職員の居住地に近づき過ぎると、クラッカーを焚いたり、ドラムを叩いたりする最後の手段にでます。これまで万が一の場合が一度もなく、長らく人間と動物は平和に共存してきています。

ラジブ・ロチャン
ロチャン・ティー・リミテッド

ダックティーは、20年ほど前にビハールに誕生した茶園である。しかしながら、ビハール州政府は、乾燥した北東の端の「パーバンチャル」から、北西の端の水の豊富な「パンジャブ」というエリアにかけて、人の移住を阻止したいと願っていた。
近隣のベンガルには新しい茶園モデルが採用され、インド紅茶局からは”非伝統的な茶栽培地帯”と認定され、1998年以降小さな茶農家が次々と誕生した。

小さな茶農家は、研究を重ねることで、手揉みのオーガニックティーを作った。ダックティーは2016年には静岡のお茶まつりで銀針を出品し、金賞を受賞した。お茶の評価が上がり、高値で取引されることにより、小さな農園で働く奴隷制の労働モデルは、健康的な茶農家へと変わっていく。

ビハールは釈迦の土地として知られ、釈迦は眠気を覚ますために自分の眉を抜き、ダック川の土手に投げ捨てたと言われている。その土手の一面には、お茶の樹がすくすくと育っている。

訳 Miwa YAMAUCHI

紅茶とみらい

1984年三月、かつて黒人奴隷の新大陸への集積、積み出し港としてヨーロッパに知られたアフリカ大陸の西の端セネガル共和国から、小学生のころから夢見ていた途上国での生活という長い旅を終え、自分の生まれ育った川根茶の産地、静岡県の山奥へ帰り着いた。

その年の茶前、町内の茶農家から農薬不使用栽培にはピッタリにみえる大柄で逞しそうに葉を広げる外観の茶の苗を手に入れ、早速、家の茶畑でも日照時間が短く、一番冷たい、ヤブキタが上手く育たぬ所へ植えることにした。もちろん管理は農薬不使用栽培で。

その当時の茶業は、非常に好景気で、作ればなんでも売れる、ゴミさえも売れると言われた時代の最中。できるだけ早く、できるだけ高収量に、肥料も農薬もてんこ盛り状態。それでもなぜか、今でも真意はいまだわからないのだけれど、紅茶を作りたいと思い、その夏から工夫を重ねてなんとか作り始めた。周囲には作ったことがある人間は誰もいない。農協の営農職員にマニュアルがあれば欲しいと頼んだが、入手できたのはA4一枚の簡単な解説一枚だけ。それでもますいさんちの紅茶がここから始まった。幸運にも紅茶が大好きだという煎茶のお客様がいて、それから自分の紅茶を決まって購入してくれている。作っている自分は、その自分の紅茶の立ち位置がよく理解できていなかったようにも思う。ただ、美味しいと言えるものでは正直なかった。生産農家もいない、先生もいない中、失敗と工夫を重ね、なんとか自分なりの安定した紅茶作りの製法を確立したのが、作り始めて五シーズン目くらい。丁度その時、アフリカから帰って植えた新しい茶苗が手摘みできるほどになり、試しに紅茶にしてみることに。なんとなんと、作った自分がいちばん驚いた紅茶になっていた。定番、「ますいさんちの紅茶」がちゃんと販売できる商品になった瞬間だった。

しかし、世は蒸し製煎茶全盛、万能の時。ちっとも売れないし、見向きもされない。それどころか訳分からんお茶を作っていると嘲笑もされ、お茶摘みが大好きな母にも、こんんなに良いお茶をこんなお茶にしちまって、と言われる始末。長いますいさんちの紅茶の下積み時代。平成時代に入り、煎茶の価格低迷が始まりだした産地の農家が紅茶を作り始めていたし、ニュースにもなり、メデイアにも登場するようになっていた。しかし、自分のところは何一つほとんど変わらず、一風変わった茶農家のまま。

1996年、長女が生まれた。名前は「未来」。妻が決めた。1984年から作っていた新しい品種のお茶の名前がないので、その長女にあやかり、「みらい」とすることにした。お茶作りの未来も託そうかなと、そんな思いだった。その時からますいさんちの紅茶は「みらい せかんど」となった。「煎茶みらい」と「紅茶みらい せかんど」を、いつかは私を笑っていたみんなに自慢できるお茶に育てたいと考えていた。その「みらい」をきっかけに、これからの自分の茶園のお茶は、多様な品種と多様な製法で展開し、作る自分さえも、面白く楽しい茶農家を継続できるものにしたいと思った。

それから間もなく、山の中でも使い始めたインターネットで、ダージリン ファーストフラッシュの人気を知ることになる。こんなのは自分でも簡単さぁ、と作り始めたのが「みらい ふぁすと」。その5月の「みらい」の茶葉の萎凋のなんとも比較しがたい良い香りが、「萎凋煎茶 みらい」を作る契機にもなった。当時茶業関係者の誰もが禁じ手、ご法度にしていた萎凋蒸し製煎茶は、おかげで自分のお茶作りの原点にもなった。

ここ数年、沢山の国内の茶農家が当たり前のように紅茶を作り始めている。また、その中から、新たな取組で紅茶作りをし始めた若い世代の茶農家が出始めた。長く存在を知られぬままできた自分にとっては、とても嬉しい。お茶作りにかける気持ちが伝わる次の世代の農家と刺激し合いながら紅茶を作れるとは、夢にも思わなかった時が、今だ。

ここ数年、ドンドンと多様化する日本産紅茶と煎茶の多様性、その中にいる茶農家の自分を見ていると、かつて自分が託したお茶の「未来」を、「紅茶みらい」が繋いでくれているように思う。

2017年1月  農薬不使用栽培益井農法 益井悦郎

<益井茶園・益井悦郎氏プロフィール>
1956年静岡県榛原郡川根本町青部生まれ 江戸末期から青部・益井の五代目
1977年~1979年 派米農業研修生参加 ネブラスカ州ドイツ系移民コーン農場で一人働く
1981年~1984年JICA日本青年海外協力隊参加 西アフリカ・セネガル共和国コルダ県
帰国1984年新茶シーズンから30年余農薬不使用栽培 益井農法で緑茶、紅茶、半醗酵茶を作る。